本棚の住人の鉄道忘備録

個人的に気になった鉄道に関するテーマで書いているブログです。

ef55はなぜ復活することができたのか?その裏側で何があったのか?

 

 

 

引用先 https://raillab.jp/photo/89688


鉄道博物館に保存されているef55が復活できたその理由とはどんなことだったのでしょうか?

 

 

 

 


ef55とはどんな電気機関車だったのか?

 



引用先 https://raillab.jp/photo/250612

 

さいたまの鉄道博物館に保存されているef55ですが、この車両も元をたどっていくと、戦前の旅客用電気機関車名車と呼ばれたef53の系列の車両になりますが、


なぜ?ef55の車体が流線形だったかというと、ef55が登場した当時ですが鉄道の世界では流線形が世界的にもブームだった時代でありました。

 

そういうこともあって国内でも当時の鉄道省もそうですし私鉄でも流線形の車体の車両がいろいろと作られたということはよく知られていますが、

 

この当時、鉄道省が作った流線形の車両といえば、蒸気機関車では戦前の花形旅客機のc53の43号機が流線形に改造されたことから始まり、

 

c55の2次型については最初から流線形の車両として落成し、電車では飯田線で活躍したクモハ52の1次型と2次型もありましたし。ディーゼルカーでは1編成だけに終わったキハ43000もありましたが、


その中でまともに使えたのはクモハ52の1次型と2次型だけということになりました。

 

それでef55ですが戦前はどんな列車を担当したのかというと、ef53とともにその当時の花形特急列車であったの特急つばめや富士を担当しましたが、

 

ef55についても暖房装置がなかったということもあって寒い時期は暖房車を連結したり、あと流線形の車体ということで到着した後ですが転車台で向きを変えなければならないというようなこともありました。

 

そうしたこともあって戦前から戦後にかけてもまともに活躍することがなかったとも言われています。

 

そして戦後になってからはというと、特急へいわが運転が始まった際に担当したということもありましたし、その後は、高崎機関区に移動したのち高崎線普通列車を担当したりしていましたが、

3両だけだったということで1号機を除いて他の車両については解体処分となりましたが、解体された3号機については一部の部品が凸型の交直流電気機関車のed30に流用されました。

 

それで残った1号機については国分寺にあった中央鉄道学園で静態保存されたのち、再び高崎第二機関区に戻り、復活の日を迎えたということになりました。


ef55もついにkatoから製品化された。

 

 


引用先 https://www.tokyo-np.co.jp/article/194403

 

鉄道模型Nゲージの世界でもef55についてはこれまでワールド工芸が製品化してきたということはよく知られていますし、

 

マイクロエースも製品化しましたが、ただ、ef55については先台車の部分がスカートに入っているということでどのように曲線を通過させるかというのが最大の問題でありましたが、

 

マイクロエースの製品についてはフランジレスの車輪を装備させることで曲線を通過させることができるようになりましたが、

 

それでもNゲージの世界ではef55の製品化は難しかったということですが、それがkatoから製品化されたというのですから、この話が出たとき、鉄道模型好きの方でも驚いた方も多かったというのですが、

 

なぜ?katoのef55が曲線をうまく通過させることができたかということについてはRMモデルズ338号にkatoの製品企画課に所属している関良太郎さんがその裏側について具体的にまとめた話が掲載されていますが、

 

それにしてもkatoもうまい具合にef55を製品化したものではないでしょうか。

 

 


ef551号機が復活できたのはどんな理由があったのか?

 

 

引用先 https://raillab.jp/photo/12350


ef551号機が復活することができたそもそもの理由は何だったのかというと、話は1985年の秋に実施された高崎機関区での機関車の展示会でありました。

 

この時はef60 501などいろいろな直流電気機関車のトップンナンバーなどが揃ったということもありました。

 

その一環として長年屋外に留置されていたef551号機も高崎機関区の方達によって整備しなおされたということで、これがその後、本線へ再びef551号機が復活するきっかけになったことで、

 

翌年に大宮工場で動態復元工事を受け、6月24日に車籍が復活し本線で再びその雄姿を見ることができるようになったというのですから、

 

ef551号機が復活できたその裏にはいろいろなことが重なっていたということでありました。

 

 

ef551号機が復活した後も活躍は続く。

 

 

 

引用先 http://hinobashi.net/030912takasaki.html

 

86年に本線に再び復活することができたef551号機ですが、復活した後はJR東日本に所属しましたが、JR東日本時代はというと1992年にATS-Pが搭載されるなどの変化もあれば、

 

上越線の高崎 - 水上間間で運転された「EL&SL奥利根号やEF55奥利根号」などさまざまなイベント列車で活躍しましたが、その際にはef641001号機が補機として連結されていましたが、

 

ef641001号機もef551号機に合わせる形で茶色に塗装され、白い帯を巻いた姿で登場し、ef551号機とともにコンビを組んで活躍していましたが、

 

ef551号機については2006年の12月に誕生してから70年ということで記念列車が上野と高崎との間で運転されましたが、この時がef551号機が最後の舞台となりました。

 

そして翌年になってからコンプレッサーが故障したことで再び本線から引退するということになり、そして今はさいたまの鉄道博物館に保存されているというのですが、

 

一度は本線を離れた車両が再び本線に戻り、そしてまた本線を離れたというのですが、

作られてから70年が経過していたというのであれば引退してもおかしくないということになりますが、

 

逆に言えばそれだけef551号機に多くの方達が関わったからこそ復活できたということでありますから、ef551号機も稀な強運の持ち主だったということになります。