本棚の住人の鉄道忘備録

個人的に気になった鉄道に関するテーマで書いているブログです。

キハ20形の歴史と運用 急行列車でも使われていた。

 


引用先 https://www.kipio.net/kt-kh20.html

 

国鉄時代にローカル線で活躍したキハ20形は、どんな車両だったのでしょうか。

 

 

キハ20形とはどんな車両だったのか?

 


キハ20形はどんなディーゼルカーかというと、両運転台のディーゼルカーで製造年代によって窓周りと台車が異なりますが、

 

前期型のキハ20 1~103までがバス窓の前期型で、

 

 

 


引用先 http://mahoroba.kir.jp/sepia/mezurasi.htm

 

台車はウィングバネ式DT19C(駆動台車)・TR49A(付随台車)になります。


それでキハ20の前期型もJRになってからもJR九州にキハ20 41が残っていました。

 

 


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引用先 http://18201.blog107.fc2.com/blog-entry-842.html

 


あとキハ20には北海道向けのキハ21もありますが

 

 


引用先 https://inacafe.exblog.jp/648103/

 

車内の作りはキハ20と変わりませんが、窓が2重窓であるところが北海道向けの車両である証になりますが、ただ、車内が開放デッキだったこともあり、冬場の運行は大変でした。

 

 

あと後期型のキハ20はキハ20 201から484、501から522もありますが、

 

 

引用先 https://itreni.net/jnrkeishikipage/dc/dc20/jnrdc20.html


後期型のキハ20は、前期型の車両との違いは窓が二段上昇窓であることと、台車がイルバネ+オイルダンパを枕バネのDT22A・TR51Aで、さらに後期型のキハ20 201から484は照明が白熱灯で、501から522は蛍光灯でありましたから、同じ後期型のキハ20でも作られた時代が異なっていたということで照明灯が2種類ありましたが、

これ、北海道で活躍したキハ22でも照明が白熱灯と蛍光灯が使われていた二つの車両もありました。

 


キハ20形も急行での運転もあった。

 

 

引用先 https://www.kanorail.com/DC_local/kiha20kei.htm


キハ20形ですがこの場合、北海道でも使われていたキハ21も入りますが、急行にも使われていましたが、北海道の場合はローカル線も多いということで、そうした路線ではキハ21やその後継となるキハ22が急行の運用にも入っていましたし、

 

晩年はキハ40も急行の運用に入ることがありましたが、その理由はというと北海道で急行の運用に入ったディーゼルカーに共通しているのは両運転台の車両になりますが、

 

それだけ北海道では急行向けのディーゼルカーについて数も限られていましたし、本線での運用に使われていたということになります。

 

キハ21が急行に使われたケースは、釧網本線の準急の「摩周」をはじめとして、瀬棚線から乗り入れていた「急行せたな」など限られた路線で、キハ21が急行の運用に入っていました。

 

 

本州はどうだったかというと、キハ20形が急行に使われたケースとして有名なのが千葉県で、今は電化されて外房線内房線になりましたが、これらの路線がまだ電化されていないということで、

 

その当時のこれらの路線では、ディーゼルカーによる急行が当たり前のように運転されていました。実際にキハ20が急行に使われたケース、この場合準急になりますが、両国駅を発着とする「京葉」キハ20形が使われていたというのも、


この列車ですが行き先が銚子、館山、安房鴨川と3か所に分かれているというもあり、途中で切り離しや増結をする関係でキハ20形が急行に用いられていました。

 

 

それと千葉県は都心からも近く、夏場は海水浴などでにぎわっていた関係で臨時列車も運転されていましたが、その一例が新宿から千葉まで運転された臨時の準急列車の浜風と清澄ですが、この列車も行き先が異なり、浜風が新宿から館山、清澄は新宿から安房鴨川という具合に二つの列車が併結されていましたが、

準急 浜風と清澄の実際の写真が、ドキュメント感動の所在地の2巻の35ページの千葉県鉄道管理局の動力近代化の過程の下の方に、掲載されていますが、それだけその当時の千葉県沿線の夏場の賑わいがすごかったということになります。

 

あとキハ20形が急行に用いられたケースは、京都と天橋立を結んでいた準急丹後のケースもありましたが、準急丹後のようにちゃんとした定期列車でキハ20形が用いられるケースはまれの方になりますが、

 

準急丹後は、運転が始まった当初はオールキハ20形の6両編成で、その後、今でいう半室グリーン車の車両のキロハ25も連結されるようになりましたが、

 

実際の編成が、鉄道ピクトリアアーカイブセレクションの6巻 国鉄ダイヤ改正在来線最盛期1960の気動車列車試乗案内の準急丹後のページに出てきていますが、

 

いつ記録されたものかというと1960年の1月で、その時の下りの第1丹後の編成は、キハ20+キハ25+キロハ25+キハ20という編成で、1号車は始発が福知山、そして2号車から3号車までが東舞鶴福知山で合流して京都を目指したのち、その後、京都から天橋立との間を往復したのちに、再び福知山と東舞鶴に戻る関係もあり、分割併結必要もあったということで、キハ20形が用いられました。


それと芸備線でもキハ20が急行の運用がありました。それが急行たいしゃくでありますが、この列車も最初は準急でその後急行に昇格しましたが、たいしゃくもキハ20形が単行で使われていた時期もありましたが、

 

キハ20が急行に使われたケースとしては、ローカル線から本線へと乗り入れるケースで運転されていた急行に用いられることが多かったということでした。

 

 

キハ20形には改造車があまりなかった。

 

 

 

引用先 https://raillab.jp/photo/198303

 

 

キハ20とキハ21は、キハ10系のように改造された車両が多くあまりせんが、それでも簡易荷物車に改造されたキハ20形600番台とキハ20形650番台がありましたが、前者がバス窓と呼ばれた初期型からの改造車で、後者は後期型と呼ばれる車両から改造されたものになります。あと、北海道形のキハ21からもロングシートに改造された100番台も3両ありました。

 

それで唯一キハ20形でまともに改造された車輌といえば、キハ21 100番台から改造されたキユニ21がありましたが、

 

 


引用先 http://1980jnr.net/contents4-4-6.html


この車両も北海道の深川と旭川に配属されていた関係で、道内でもなかなか見かけることができなかったレアな車両になります。

 


なぜ?キハ20形が長く活躍できた理由は?

 

 

キハ20形ですが1993年まで活躍しましたが、


なぜ?それだけ長く活躍できたのかというと、これにはローカル線が第三セクターへ移行したことや新型のディーゼルカーへの移行などが絡んでいましたが、実際に最後までキハ20が使われていた路線として名前が出てくる加古川線鍛冶屋線にはキハ40に変わったことや路線自体の廃止ということもあれば、芸備線で使われていた車両もキハ40へ変わったことで全廃となりました。


JR九州でも国鉄から引き継いだキハ20がありましたが、それもキハ40へ置き換わったり、高千穂線のように第三セクターに移行したことなどから、1990年にはすべての車両が廃車になりましたが、

 

それ以降残った車両は私鉄に譲渡された車両だけでしたが、今もひたちなか海浜鉄道でも不定期で運用に入るということもありますが、

 

この当時作られた車両もそれなりにしっかりとした造りで、あったからこそ長持ちしているということではないでしょうか。