引用先 https://raillab.jp/photo/123374
c58ですが、たびたび迂回列車を担当するということがありましたが、それがいつで?なぜそのようなことが起きたのでしょうか?
●c58が迂回列車を担当した理由は?
引用先 http://joki.o.oo7.jp/1mai/1012.htm
c58が迂回列車を担当したケースは東北本線が大雨などで土砂が流出した関係で、陸羽東線経由で迂回列車が運転されたケースと脱線事故が発生して、赤穂線経由で迂回列車が発生したケースがありました。
●c58の迂回列車として有名な津軽とあけぼの。
引用先 https://kumanotaira.com/haru-no-ogawa-iwate-u.html
c58が迂回列車を担当したケースで一番有名なのが、1973年4月に奥羽本線の芦沢から舟形までの区間が不通となった関係で、陸羽東線経由で優等列車が運転されましたが、
・寝台特急あけぼの
・急行津軽
でありましたが、なぜ?陸羽東線が選ばれたのかというと、この当時ですが東北本線が大雨などで不通になった場合ですが、迂回ルートとしては陸羽東線や北上線がまだ蒸気機関車が活躍していた当時は横黒線とも呼ばれていましたが、これらのルートが東北本線の代わりの迂回ルートとして使われていたということはよく知られています。
それで陸羽東線経由で運転された寝台特急あけぼは国鉄時代Vol.5の巻頭グラフの20系の記録の終焉の奇跡ということで、陸前高古川を出発するところを撮影された画像が出てきていますが、この画像が撮影された時は前にc58が一台、そして間に20系のあけぼのをはさみ、後ろにもう一台が補機につきましたが、
寝台特急あけぼのは晩年になりますが、山形新幹線の工事の関係で、陸羽東線経由で運転されたことがありましたが、この時はde10が重連で担当しましたが、de10が担当した唯一の寝台特急でしたが、平成の時代にもそのようなこともあったというのですから、寝台特急あけぼのと陸羽東線とはただならぬ縁で繋がっていました。
そして急行津軽は、国鉄時代Vol.23の34~35ページに陸羽東線経由で運転された迂回の急行津軽の画像が出てきていますが、急行津軽も重連運転での形になりましたが、
この当時は今のように今のように早々と列車の運転を打ち切るということはなく、よほどのないことがない限り目的地まで迂回ルートで経由しても優等列車が運転されていました。
ちなみに、20系時代の1967年の10月には寝台特急はくつるとゆうづるが、台風崩れの低気圧の影響により、東北本線の一部の区間で1週間ほど不通になった関係で、
横黒線経由で寝台特急はくつるとゆうづるが運転されましたが、その時はd60が20系寝台特急はくつるとゆうづるを担当しましたが、寝台特急はくつるはさらに10月一杯、横黒線から奥羽本線経由で運転されましたが、
この時、撮影された画像が国鉄時代Vol.5の巻頭グラフの20系の記録4ページから5ページに矢立峠に挑むc61が担当したはくつるの画像が出てきていますが、この時の寝台特急はくつるですが補機にd51がついて、矢立峠を越えましたし、6ページから7ページには、横黒線の仙人峠で撮影されたd60が担当する20系寝台特急はくつるの画像も出てきていますが、
今の時代でしたらこのようなことになったら鉄道好きの方達の間では大騒ぎになったのではでしょうか。あの当時ですらたいした話題にならなかったのですから。
●c58が担当した迂回列車は他にもあった。
引用先 https://raillab.jp/photo/46066
c58が迂回列車を担当したケースは他にも、1962年に岡山県内山陽本線での貨物列車の脱線事故が発生した際に、赤穂線迂回でその当時の花形特急の151系を使って運転されていた特急つばめに富士そしてうずしおを担当したケースがありましたが、これも異例といえば異例なケースになります。
何しろその当時の花形特急列車である特急つばめに富士、うずしおをc58が担当したのですが、この時、運転された特急つばめに富士そしてうずしおですが、赤穂線内は冷房も使えなかったということなのでしょうか。
c58ですが、たびたび迂回列車を担当するというようなこともありましたが、これはお召し列車に次いでc58で輝かしい出来事でありました。