本棚の住人の鉄道忘備録

個人的に気になった鉄道に関するテーマで書いているブログです。

c57が担当した特急にはどんな列車があったのでしょうか?

 



引用先 https://raillab.jp/car/75267


c57も特急列車と縁のある蒸気機関車でしたが、実際にどんな列車を担当していたのでしょうか。

 

 


c57が戦時中にすでに特急の運用にも入っていた。

 

 

引用先 http://homepage3.image.coocan.jp/nippou1.html

 

c57と特急列車との縁はいつごろからかというと、戦時中にはすでに特急列車の運用にも入っていましたが、それに関する記述がWikipedia国鉄C57形蒸気機関車の中にも出ていますが、

 

どんな列車を担当したのかというと、特急富士でしたが、特急富士については戦前の東京と下関を結ぶ優等列車の筆頭でありましたし、さらに1942年に関門トンネルが開通したことで運転距離も伸びて長崎まで運転されることになりましたが、

 

ただ、長崎本線については重量級のc53やc59が入れなかったということで、c57が特急富士を博多から長崎までの区間を担当したということになりますが、

 

c57はすでに戦時中に特急列車の運用に入っていましたが、何分、戦時中ということで写真撮影もできない時代でありますから、その当時の写真が残っていないのが残念なことですが、

 

 

そうなるとその当時の門司駅ではef10とc57交代する場面も見られたということではないでしょうか。

 

c57といえばなにはなくても特急かもめ。

 

 



引用先 https://twitter.com/take7700gh5fs/status/932202301422321664

 

c57と特急列車の縁は戦後になってから復活しますが、c57といえば何はなくても特急かもめが有名ですが担当した区間も門司から博多まででありますが、

 

特急かもめについては戦前からありましたが、その当時は東京と大阪を結ぶ列車で、戦後、運転された特急かもめについては京都と博多を結ぶ列車でありましたが、

 

戦後になって運転された特急としては初めて関西と九州を結ぶ画期的な列車でありました。

 

ということもあり、特急かもめでもスハ44系が使われていましたが、スハ44系時代の特急かもめについては編成美も美しかっとも言われていますし、

 

さらに九州に入ってからは門司機関区のc57が特急かもめを担当していましたが、


その中でも特に11号機

 

 

引用先 http://shiino-goichi.sakura.ne.jp/menu1_c5711_kamome_001.htm


65号機

 

 

引用先 https://blog.goo.ne.jp/hanjiro8044/e/9e632984291e4a73796eeb06e32c8a6f

 

特別整備されていたということで、11号機については門デフにさらにかもめの翼と波の装飾を入れていたということでも知られていますが、

 

その当時の11号機と65号機の画像が国鉄時代Vol.14の24ページに掲載されていますが、今考えてみたらこれだけきれいに撮影した画像が残っていたということ自体がすごいことですし、

 

それを撮影した佐竹保雄さんも貴重な写真を大切に保管していてくれたものだとつくづく感じますが、

 

こののちですが11号機と65号機については門司を離れて、11号機は最後は福知山機関区に配属され播但線で終焉を迎え、65号機については宮崎機関区で最後は急行日南3号の運用にも入ったというのですから、

 

 

九州に残った65号機については最後まで華々しい舞台が用意されていたということになります。

 


c57と九州特急の縁も強かった。

 

 

引用先 http://homepage3.image.coocan.jp/nippou3.html

 

特急かもめの運用から離れたのちもc57については特急列車との縁も続きましたが、今度はどんな列車を担当することになったのかというと、

 

 

寝台特急あさかぜが運転されるようになってからそれを補う感じで不定期で運転されるようになった特急さちかぜがありますが、

 

 

引用先 http://hiko47.blog63.fc2.com/blog-entry-33314.html

 

この列車も長崎本線とはただならぬ縁で繋がっていましたし、c57ともつながっていました。

 

それで特急さちかぜが運転されてからc57が担当した区間はというと、博多から長崎までの区間で、担当した機関区が鳥栖機関区になります。

 

実際に鳥栖機関区が担当していた当時撮影された写真が国鉄時代vol.51号の37ページの下に掲載されていますが、画像が撮影されたのが1958年の3月30日でその時、担当したc57は門デフの100号機でありましたが、

 

こうした貴重な写真は本当にあるところにはあるということになりますが、この画像を撮影した方ですが国内でも屈指のディーゼル車両の研究家でもある湯口徹さんが撮影したものですが、

 

このような画像も残っていること自体に改めて驚きを隠せませんが、こうした画像があるからこそc57が特急を担当したということが証明されているということになります。

 

それで特急さちかぜについてはその後、名前が特急あさかぜと紛らわしいということで、特急平和となり、20系の寝台車に移行したことで名前が特急さくらと変わりましたが、

 

引用先 https://sohyoh.sagafan.jp/e347073.html


その後も鳥栖機関区に所属していたc57が20系時代の特急さくらも担当していましたが、まだこの当時ですが電源車がマニ20ということもあって、ライトパフィシックのc57でも担当できたということになりますが、

 

SL甲組の肖像の4巻の鳥栖機関区の回の224ページから225ページには、3次型の174号機が特急さくらをけん引する画像が、そして226ページの上には門デフの9号機が特急さくらを担当する画像も出てきていますが、

 

この当時が一番、c57が特急を担当した中でも門司機関区時代に次いで、輝いていた時代ではないでしょうか。

 

 

c57がイレギュラーな運用で特急を担当したこともある。

 

 

引用先 http://d51791.com/pg26kagosima.html

 

c57ですが晩年は九州の宮崎機関区で活躍していたということはよく知られていますが、宮崎機関区時代にもc57が特急列車の運用にも入るというようなイレギュラーなこともありましたが、

 

なぜそのようなことになったのかというと、大分機関区に配属されたdf50が故障したため、急きょ宮崎機関区のc57が寝台特急彗星の運用に入るということとなりましたが、


その時、撮影された画像が国鉄時代Vol.15号の32ページから33ページに掲載されていますが、この時は宮崎機関区のc57の66号機を先頭に重連運転だったというのですから、

 

この時撮影された画像は本当に偶然で撮影したらそれがのちに貴重な1枚となったケースででありましたが、

 

特急富士が20系時代にも大分機関区のdf50が故障した関係で運用に入るということもあれば、2006年の3月に発売され国鉄時代Vol.5号の特集記事にもc57が寝台特急はやぶさを担当したという記事が出てきていますが、


担当した区間はというと、肥薩線の人吉から先の区間の川線と呼ばれている区間で人吉機関区のc57が担当しましたが、

 

なぜ?そんなことが起きたかというと、


その記事によると1963年の5月31日のことになりますが、鹿児島本線が降雨により、土砂崩れが発生し、特急や急行については肥薩線経由で運転することになりました。

 

それで寝台特急はやぶさについては人吉機関区に配属されていた重装備仕様のd51 170号機が20系の寝台特急はやぶさを担当して肥薩線を通過したのち、

 

今度は人吉から先の川線には人吉機関区のc57が担当したということでありましたが、d51 170号機が20系の寝台特急はやぶさを担当した写真については国鉄時代Vol.5号の10ページから11ページに掲載されていますからこの時、人吉から先の川線の区間でc57が
担当した寝台特急はやぶさも撮影した画像もあるのではないでしょうか?

 

あったとしたらすごい写真になっていたのではないでしょうか。

 

こうしてますとc57については特急列車との縁も強かったということになります。