引用先 https://toyokeizai.net/articles/-/272600?page=2
蒸気機関車が最後に担当した急行といえばc57が担当した急行日南3号が有名でしたが、なぜ?そうなったのでしょうか?
●c57が担当した急行日南3号とはどんな列車だったのか?
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引用先 https://blog.goo.ne.jp/miya22ka152133/e/2edde8e4c6cae3807fff89430eb01bbb
蒸気機関車が最後に担当した急行として有名な急行日南3号ですが、いつからc57が担当したのかというと1973年の10月のダイヤから翌年の4月まで担当しましたが、
急行日南3号とはどんな列車か?というと、京都と宮崎を結んだ急行列車で、10系の寝台車などで編成された13両編成で、途中の大分では1号車のA寝台車から3号車のB寝台車を切り離し、都城では10号車から12号車を切り離し、
荷物車とB寝台車、グリーン車2両と普通車3両で宮崎へと向かいましたが、まだ、この当時ですが海外旅行は高嶺の花で、新婚旅行は国内でありましたが、その中でも宮崎県は特に人気が高く天孫降臨の高千穂などを含め、観光資源も豊富だったということでも有名でしたが、
今ではプロ野球の春季キャンプの拠点でも有名な場所になりましたが、かつての宮崎県は新婚旅行の人気の高いスポットでありました。
●急行日南3号を担当していた宮崎機関区に所属していたc57の顔ぶれは?
引用先 http://d51791.com/pg26kagosima.html
c57が担当した急行日南3号ですが運転されていた当時の区間は都城から宮崎までの区間を、宮崎機関区に所属していたc57が担当していましたが、その当時、急行日南3号を担当していた宮崎機関区に所属していたc57はというと、1次型から4次型まで揃っていましたし、
さらに宮崎機関区に所属していた機関車c57については圧倒的に門デフが多かったということになりますが、急行日南3号を担当していた時点では門デフの機関車c57の何号機がいたかということについては、
国鉄時代Vol.51号の39ページに門デフを装備したc57の一覧表が出ていますが、何号機が門デフだったのかという具体的なことについては次のようになります。
・1次型では、9号機、65号機、72号機、112号機、117号機、
引用先 http://homepage3.image.coocan.jp/nippou3.html
・2次型では、154号機、
引用先 https://sl-index.blog.ss-blog.jp/2010-03-22
・3次型では、175号機、
引用先 https://c5557.cocolog-nifty.com/blog/2020/12/post-2d0989.html
・4次型では、196号機
引用先 https://drfc-ob.com/wp/archives/118021
で、これに長工デフの130号機
引用先 http://tsukikage1003.web.fc2.com/newpage4C57.html
というのですから、今考えてみたらなんだか夢のような世界が展開していましたが、その中でも特に1次型の65号機は特急かもめの指定機であった車両でもありますし、
引用先 http://shinanomachi.cocolog-nifty.com/blog/2021/01/post-c39bdd.html
117号機については1973年の4月に日豊本線で運転された蒸気機関車による最後のお召し列車を担当した機関車でありますから、
その当時、急行日南3号を担当した宮崎機関区のc57は本当に豪華な顔ぶれが集結していましたし、急行日南3号以外にも日豊本線の普通列車や貨物列車も担当していましたから、それこそ門デフのc57同士のすれ違いも頻繁に見ることができたということになりますから、
今考えてみたら夢のような世界が繰り広げられていましたし、その雄姿を求めて多くの方が九州周遊券を手にして撮影に来ていました。
あと、宮崎機関区には門デフ以外にも通常の通常のデフレクターを装備したc57いましたが、これらの車両も無煙化により宮崎機関区に移動してきた車両で、数からいけば圧倒的に門デフの方が多かったということでした。
●なぜ?宮崎機関区のc57が急行日南3号を担当したのか?
引用先 http://homepage3.image.coocan.jp/nippou2.html
急行日南3号については1973年の10月のダイヤから翌年の4月までの間ですが都城から宮崎までの区間を、宮崎機関区に所属していたc57が担当することとなりましたが、
なぜ?限られた期間だけ宮崎機関区のc57が急行日南3号を担当したのかというと、その裏には日豊本線の電化も絡んでいましたが、その当時、寝台特急富士などを担当していたDF50が大分機関区に配属されていましたが、
日豊本線が電化されることで今度は宮崎機関区に移動しますが、大分機関区に配属されていたDF50が故障がちだったということもありましたが、
SL甲組の肖像の5巻の宮崎機関区の回にその当時、DF50に乗務した方の証言によると、DF50についてはc57と比べても楽だったが、その反面、故障が多かったということで、列車の遅れは日常的でありましたが、
その理由はというとエンジンがオーバーヒートしやすく、特に霧島神宮での上りでは機関車がへたばってしまうということで、c57のようにだましだまし運転することができなかったというのですが、
この当時、大分機関区に配属されていたDF50は、大分から西鹿児島まで運転されていた寝台特急富士、急行高千穂に、寝台特急彗星も担当していましたし、DF50自体も老朽化していたということあり、
そうしたもろもろの事情が組み合わさった末にc57が急行日南3号を担当するということになりましたが、この時の雄姿を撮影するためにその当時、社会人や大学生に高校生、そして中学生の方が九州周遊券を手にして、東京発の急行桜島・高千穂に乗り込み、九州まで遠征していました。
それで急行日南3号については本命ということもあり、試し撮りということで、宮崎からやってくるDF50が担当していた寝台特急富士で試し撮りをしてから本番の日南3号の撮影に備えたという話も残っていますが、これも今考えたらなんだか贅沢な話だったのではないでしょうか。
それだけc57が担当した急行日南3号についてはその当時、蒸気機関車を全国各地で撮影していた方の憧れの存在でありました。