本棚の住人の鉄道忘備録

個人的に気になった鉄道に関するテーマで書いているブログです。

c57もお召し列車とは強い縁で結ばれていたがいつから担当していたのか?

 

 



引用先 https://plaza.rakuten.co.jp/isehara/diary/201010030001/

 

 


c57もお召し列車お召し列車で活躍することがよくありましたが、いつからお召し列車を担当することになったのでしょうか?

 

 


c57とお召し列車とは切っても切れない関係だった。

 

 

引用先 http://slphotoniigata.web.fc2.com/c4-C571-omeshi.html

 

c57も本当にお召し列車との縁も強くて、戦後になってから蒸気機関車によるお召し列車でも運転回数も多く、さらに四国地方を除く全国各地で運転されていましたから、

それだけc57が乗務員の方や整備する検修掛の方達にとっても扱いやすい蒸気機関車だからこそ、お召し列車にも抜擢されることも多かったということになりますが、

 

この辺については戦前にお召し列車などで活躍したc51と似ているのではないでしょうか。

 

 


c57については全タイプがお召し列車を担当していた。

 


引用先 https://www.suruga-ya.jp/product/detail/981052508

 

 

それc57が担当したお召し列車といえば1号機が担当した新潟植樹祭の時の運転されたケースや翌年の4月に宮崎で行われた植樹祭の際に担当した117号機が有名ですが、

 

 

引用先 http://geo.d51498.com/zensin7040/miyazakicyokuzyusai1.htm

 

どちらとも1次型ですが、じゃあ?2次型から4次型はどうなのかというと、これがすべてタイプでお召し列車を担当していますが、


具体的にc57の何号機がいつどの路線で担当したかということについてですが、国鉄時代Vol.51号に成田冬紀さんのまとめた一覧表が出ています。

 

それにはよると2次型については名古屋区の139号機も担当していましたが、名古屋区の139号機については本当にお召し列車とは縁の強い機関車で、

 

昭和天皇の時には、旧御料車1号編成と新御料車1号編成を担当しましたし、上皇様がまだ皇太子時代にエリザベス女王2世の戴冠式報告を伊勢神宮に訪れた際にも担当していますから、これだけ皇室と縁の強い機関車も稀ではないでしょうか。

 

3次型は、1954年の北海道国体の際に盛岡区の170号機が一ノ関から青森までの区間を担当しました。4次型は1947年に昭和天皇が東北地方を巡行した際に、盛岡区の4次型193号機が盛岡から尻内、今の八戸までの区間で担当しましたが、唯一c57の4次型が担当した例になりますが、

 

戦後になってから運転されたお召し列車でc57が担当した回については1次型もしくは2次型がよく使われていたというのも、戦前に作られた車両ということで作りもしっかりしていたということが一番の要因だったのではないでしょうか。

 

それとc57についてはすべてのタイプでお召し列車を担当したというのですから、これは蒸気機関車史上まれな出来事ではないでしょうか。

 


c57にもお召し列車の専用機もあった。

 

 

引用先 https://raillab.jp/photo/139112

 

お召し列車にはお召し列車専用の機関車も準備されていましたが、代表的な例としてはef5861号機がその例になりますが、蒸気機関車ではc51239号機が戦前から1953年まで担当していました。

 

その後、新たにお召し列車専用機としてc57126号機が担当することになりましたが、

 

引用先 https://www.kosho.or.jp/products/detail.php?product_id=360682594


お召し列車指定機ということで、通常のc57とは大きく異なりますが、その点については国鉄時代Vol.51号に成田冬紀さんがまとめたお召し列車を牽引したc57の記事によると、c57126号機についてはライトは砲弾型で、通常であれば機関助手側についている給水ポンプがなく、その代わりに単式のコンプレッサーがついて、フロントデッキにある給水温め器もついていないということになりますが、これらがついていない理由は騒音防止のためでありましたが、


c51239号機もc57126号機が出てくるまでは同じような装備でお召し列車を担当していましたが、c57126号機がc51239号機と違う点はヘッドライトのケースが箱型であった点になりますが、


それだけc57が扱いやすく整備しやすい車両だったからこそお召し列車の専用機にも選ばれたということになりますが、この点についても戦前にお召し列車を担当したc51の流れを引き継いでいるということになります。

 

 

 

c57が初めてお召し列車を担当したのはいつか?

 

 

引用先 https://blog.goo.ne.jp/miya22ka152133/e/1a6d3130e3c22aff272b44ecf6f8b588

 

お召し列車ですが、戦後に入ってから最初に運転されたのは、終戦の年の1945年の11月になりますが、 太平洋戦争が終わってから3か月後ということになりますが、 昭和天皇伊勢神宮神武天皇陵、 桃山御陵終戦の報告の際に運転されましたが、

この当、運転されたお召し列車日章旗がついていなかったというのも、 日本が連合軍によって占領されていたということでありましたが、

 

この時、運転されたお召し列車についてですが、 c57が担当しましたが、 実際に担当した機関区などについては 国鉄時代Vol.51号に成田冬紀さんがまとめたc57が担当したお召し列車の記録によると、

 

往路と復路については、 浜松区のc5794 名古屋区のc5794 同じく名古屋区のc57113 梅小路区のc57120

 

そして関西本線亀山から柘植の区間では 補機に梅小路区のc57120がし、 翌日の畝傍から桃山までの 区間も担当しましたが、

 

じゃあ?東京から浜松までの往復はどんな機関車が担当したのかというと、 東京区に配属されていたef53が暖房車を連結して担当したという ことではないでしょうか。 時期的に見ても暖房車も必要な 時期でありますからその可能性は 高いということではないでしょうか。

 

そしてこの時から1973年の4月までに35回にわたりc57がお召し列車を担当することになりましたが、 戦後、蒸気機関車で運転されたお召し列車でも一番多く担当した ということになりますから、そこは整備のしやすさと扱いやすさ からc57がお召し列車に抜擢されたということになります。

 

 

c57 1号機もお召し列車を担当していた。

 

 

引用先 http://slphotoniigata.web.fc2.com/c4-C571-omeshi.html

 

c57が担当したお召し列車といえば、 山口線での復帰が待たれるc571号機が1972年の新潟での植樹祭の際に、 羽越本線お召し列車を担当したということは有名ですが、

 

実はお召し列車を担当する直前に事故に遭い 大破してしまったということで、 廃車になってもおかしくないというような 状態でしたが、 それが修理することができたということで、 新潟植樹祭の時にお召し列車を担当する ことができたというのですから、 強運として言いようがありませんが、

 

前の年に伯備線d51 838号機がお召しを列車を担当した ということもあって、 この時も沿線には多くの鉄道ファンの 方も来ましたが、 この時も天候も曇りがちでしたが、

 

新津機関区に所属する蒸気機関車が 最後に担当したお召し列車となり、 その後、c571号機は梅小路蒸気機関館、今の京都鉄道 博物館に移動して、1979年に再び本線に復帰することと なりました。

 

c57が最後にお召し列車を担当したのはいつか?

 

引用先 https://aucview.aucfan.com/yahoo/f1000561426/

 

c57が、 一番最後にお召し列車を担当したのは というと、 1973年4月に日豊本線で運転されたのが 最後になりましたが、 この時は門デフの117号機が担当しましたが、 門デフのc57がお召し列車を担当したのはこの時限りですが、

 

当日は雨模様の中、 多くの鉄道好きの方が訪れましたが門デフを装備したc57がお召し列車を担当したのが この時限りとなりましたが、

 

じゃあ?この時、お召し列車を 担当した117号機はどうなったのか というと、 廃車になって解体されてしまった というのですが、 せっかく一番最後にお召し列車を 担当したというのですから、 何らかの形で保存できなかったのでしょうか。