本棚の住人の鉄道忘備録

個人的に気になった鉄道に関するテーマで書いているブログです。

2代 ed30も量産を前提にした車両だったが、これも不運な車両だった。

 

 

引用先 https://www.pinterest.jp/pin/636344622332171637/?amp_client_id=CLIENT_ID(_)&mweb_unauth_id=&simplified=true

 

国鉄で使われた電気機関車の中でも異色の存在の車両があります。それが凸型の車体を持つ2代 ed30ですが、この車両も本当に不運な車両でありました。

 

 

 

 

2代 ed30も不運な車両としても有名だった。

 

 

引用先 https://nihonisshyu.blog.fc2.com/blog-entry-4017.html

 

凸型の車体を持つ2代 ed30とはどんな車両だったのかというと、北陸本線の田村と米原の間で使われるはずだった車両で、交直流の電気機関車でありましたが、なぜ?2代 ed30が作られたのかというと、北陸本線については原と田村の間については直流で電化されました。

 

それで米原から田村の区間ですが、電車については交直流の急行電車でもある471系が急行列車などの運用に入るということになりましたが、じゃあ?客車による普通列車であったり、夜行の急行列車や貨物はどうするという問題が新たに生じたということで、

 

それであるならば新たに交直流の電気機関車を開発したらどうだということになりましたが、そこで登場することとなったのが2代 ed30になりますが、


実は関門トンネルで使うef30 1号機も門司機関区に配属される前は、田村駅構内にて車上による交直流の切り替えのテストも行っていたというのですから、米原から田村の区間についても交直流の電気機関車とは、切っても切れない縁で繋がっていました。

 


2代 ed30にはef55の部品も使われた。

 


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引用先 https://railwayinmemory.sakura.ne.jp/HP0x113_ED30_ED70_ED74,_EF70_HokurikuLine.html

 

それで、米原と田村の間で使うために作られた2代 ed30ですが、交直流電気機関車としては常磐線向けに作られた試作のeda92以来のedクラスの交直流電気機関車になりましたが、

 

なぜ?edクラスの車両になったのかという理由は米原と田村という限られた区間で使うということで、下手に重量の重いefクラスよりも軽量のedクラスのほうが、経済的で何よりも折り返し運転にも向いているということでありました。

 

そうしたこともあって、浜松工場にて早速、車両の製作に入ったというのですが、その際に使われた部品に流線形の電気機関車として作られたef55の3号機の部品なども流用されたとというのも、製作にかかる費用を安くしたいという思惑もありました。

 

そうした末に誕生したのが2代ed30形電気機関車ですが、なぜ?2代目となっているのかというと、ed30形電気機関車については初代も存在していたということになりますが、

 

初代のed30形電気機関車はというと、今の飯田線の一部となっている豊川鉄道のデキ54が戦時中の1943年に国によって買収され、1952年にed30形電気機関車に変更、さらに1961年に2代ed25形11号機へ形式が変更したということで、


ed30形の番号も空いていたということで、この番号が使われたということになりますが、偶然にも初代のed30と2代目のed30については、両方とも凸型の車体電気機関車でありました。

 

 


2代 ed30も本当に不運だった。

 

 



引用先 https://www.pinterest.jp/pin/172051648248526003/


米原と田村の間で使うために作られた2代目のed30形電気機関車ですが、当初の計画では6両になるはずでしたが、それが米原と田村の区間ディーゼル機関車のdd50とde10を投入するということで、1台だけで終わってしまったというのですから、本当に不運としか言いようがありませんが、この点については常磐線向けに開発されたed92と通じるところがあるのではないでしょうか?

 

そうした点から見てもed30形電気機関車はed92形電気機関車同様に不運な車輌でありましたが、それだけ不運なed30形電気機関車ですが、最後はどうなったのかというと今から53年前の1970年に国分寺市にある今の鉄道総研の前進に当たる国鉄鉄道技術研究所に移動したのち、1976年に廃車となりましたが、

 

ed92形電気機関車については国分寺にあった中央鉄道学園にも在籍していましたが、偶然にも試作に終わってしまった2つの交直流の電気機関車が偶然にも同じ地域にいたというのも、何かの縁だったのでしょうか?