引用先 https://www.city.nakatsugawa.lg.jp/soshikikarasagasu/bunkashinkoka/2/15286.html
機関車デゴイチのといえば全国各地でで多く見かけることができた機関車としても
有名な車両ですが、
特に山岳路線で活躍した車両については集煙装置を装備したというのですが、
なぜ?機関車デゴイチが集煙装置を装備したのでしょうか?
●機関車デゴイチが集煙装置を装備したその理由とは?
●機関車デゴイチが集煙装置を装備する前までどんな対策をしていたのか?
●機関車デゴイチが装備した集煙装置にはどんなものがあったのか?
●機関車デゴイチの中でも矢岳越えの車両はまさに山岳仕様だった。
●機関車デゴイチが集煙装置を装備したその理由とは?
引用先 https://marvelpaints.com/d/N499577
そもそも機関車デゴイチの中で特に標準型から準戦時型、戦時型については山岳路線を走る車両については、
煙突に集煙装置を装備した車両が数多く見られましたが、
機関車デゴイチが集煙装置を装備したその理由は、
乗務員を蒸気機関車から出る煙から守るためでありましたが、
そもそも蒸気機関車の煙ですがその正体は何かというと、
水蒸気でありましたが、
蒸気機関車で一番いい状態はどんな状態かというと、
煙がわずかに出ているかどうなのかということになりますからそれこそ完全燃焼の
状態が蒸気機関車で一番いい状態であります。
それと蒸気機関車の煙についてですが白煙の状態であれば石炭の燃え方も
いい状態でありますが、
逆に黒煙などが出ていると石炭の燃えが悪い状態でありますが、
それこそ今でも動態保存の蒸気機関車であえて黒煙を出したりして撮影に来た方を
喜ばせたりしますが、
あれについては完全なヤラセであります。
それで煙が黒煙の状態だと大量の煤も含まれていますし、
そのような状態でトンネルに入ると蒸気機関車の運転台にも一酸化炭素を含んだ煙が入ってきますから、
蒸気機関車の乗務員が煙に巻かれて酸欠になってしまうというようなことが起きてしまうということになりますが、
戦後になってからたびたび国鉄の路線で実際にトンネルに列車が入り、
蒸気機関車から出る煙が運転台に充満して、
脱線事故などが起きて乗務員の方がなくなるということも起きていましたから、
それだけ蒸気機関車から出る煙で黒煙に近いものについては蒸気機関車を
運転する乗務員にとっても危険なものでありました。
●機関車デゴイチが集煙装置を装備する前までどんな対策をしていたのか?
引用先 https://ameblo.jp/etopirika-horse/entry-12583782713.html
機関車デゴイチに集煙装置が付けられたのがいつなのかというと昭和26年になりますから、
西暦に換算すると1951年に敦賀機関区に配属されていた機関車デゴイチに装備されましたが、
なぜ?敦賀機関区に配属された機関車デゴイチに装備されたのかというと、
北陸本線の旧ルートいわゆる杉津越えになりますが、
ここについては山中でトンネルの長い区間もあり、
さらに急こう配と急曲線のある路線でありましたが、
それでも近畿と北陸を結ぶ重要な路線でありましたが、
そうした路線ゆえ、
乗務員の方達も大変な思いで蒸気機関車を運転していたということでありましたから、
そんな最中に敦賀式集煙装置が出てきたということで、
乗務員の方達の労働環境の改善にもつながったということになります。
実際に敦賀式の集煙装置を装備したD51534号機の写真が最盛期の国鉄車両ガイドブック第16巻の132ページの上に掲載されていますが、
実際に敦賀式の集煙装置を装備したD51の画像がこれになりますが、
引用先 https://toyokeizai.net/articles/-/310929?page=2
敦賀式集煙装置については煙突の部分の座布団を乗せたようなものであります。
そして敦賀式集煙装置の結果が良かったということで、
その後、D51の標準型が使われている中津川や木曽福島など中央線などの山岳路線に配属れている車両に集煙装置が付けられるようになりましたが、
じゃあ?集煙装置が登場する前までは、
蒸気機関車の乗務員の方達はどんな工夫をしていたのかというと、
できるだけトンネルに入る前までに石炭の燃え方をよくして、
トンネルを出てから再び投炭をするなどの工夫もしていましたし、
あと、トンネルの出口側の上に巨大な排煙装置を設置するということもありましたが、
実際に使われていた装置の写真がSL甲組の肖像の5巻の松本機関区の回の146ページに冠着トンネルに設置されていた排煙装置の写真が出てきていますが、
この排煙装置ですが重油を燃料として、重油を燃やしてトンネル内の煙を外に排出したり、幕を下ろしたりするものであり、
機関車が入る直前に反対側のトンネルにある幕が開き、
列車がトンネル内に入ってから排煙装置が動き出しトンネル内に充満している煙を外に放出します。
そして今度は出口側の幕が開き列車が通過するという仕組みになっていますが、
排煙装置についてはトンネルの長い区間に設置されていましたが、
それだけ蒸気機関車が出る煙については燃え方が悪いと乗務員も巻き込む重大な
事故になりかねないということでありました。
●機関車デゴイチが装備した集煙装置にはどんなものがあったのか?
引用先 ttps://drfc-ob.com/wp/archives/117482
機関車デゴイチが装備した集煙装置ですがどんなものがあったのかというと、
最初に敦賀式が出来てからそれから派生する形でいろいろなものが出来ましたが、
実際に機関車デゴイチが装備した集煙装置については次のようなものがありました。
◎手動式
・郡山工場
・長野工場
・松任工場
・後藤工場(一部)
◎動力式(空気式)
・鷹取工場
・多度津工場
・後藤工場
・鹿児島工場
D51の標準型が装備した集煙装置の特徴ですが敦賀式から派生したものになりますが、
唯一郡山式だけは全くの別物でありますが、
最盛期の国鉄車両ガイドブック第16巻の133ページの下の方に郡山式集煙装置を
装備したD51597号機の写真が掲載されています。
それと集煙装置についてですがJR西日本に所属するD51200号機も中津川機関区時代に集煙装置を装備していましたが実際の写真がこれになります。
引用先 http://railsphpto.travel.coocan.jp/d51hold1/D51195.html
それでD51200号機については今も煙突が若干低くなっているというのも、
中津川時代に集煙装置をつけたということで今も煙突が低くなっています。
あと、D51498号機が後藤デフを装備した際にも集煙装置をつけたということでも知られていますが、
引用先 https://2nd-train.net/topics/article/33759/
実際にD51499号機が装備した集煙装置については鷹取式で、
D51498号機が装備したものは長野式になりますが、
鷹取式の図面がなくてたまたま長野式の図面があったということで新しく作られたということでありましたし、
機関車デゴイチの標準型が唯一装備しなかった集煙装置については広島工場で作られたものになりますが、
広島工場型の集煙装置については山口線で使われていたd60が装備していました。
それと機関車デゴイチの標準型が装備した集煙装置についてはボイラー上につけるA型
と呼ばれる小型の重油タンクと組み合わさって装備されていたという例が数多くありますが、
機関車デゴイチで山岳路線で使われた車両については重油併燃機という車両もありましたから、
こうした装備品によって山岳路線でも機関車デゴイチがその実力をいかんなく発揮したということになります。
●機関車デゴイチの中でも矢岳越えの車両はまさに山岳仕様だった。
引用先 http://railwayinmemory.sakura.ne.jp/HP016a_HisatsuLine_D51(1).html
機関車デゴイチが装備した集煙装置の中でも特に人吉機関区に配属されていた車両に
ついては、
まさに山岳路線にふさわしいものであったということはよく知られていますが、
実際に人吉機関区に配属され肥薩線の矢岳越で活躍した車両については煙突に集煙装置してさらに、
ボイラー上にはA型の重油タンクを載せてさらに非公式側のランニングボードには
600リットルの補助重油タンクを載せていたというのですから、
それだけ肥薩線の矢岳越がどれだけ大変だったのかということを物語っていますが、
今もD51170号機が矢岳駅の近くに保存されていますが、
現役時代のD51170号機の画像がこれですが
引用先 http://drfc-ob.com/wp/archives/42689
数ある機関車デゴイチの標準型の山岳仕様の中でも飛びぬけて重装備の車両でも
ありましたし、
さらに170号機については、
1963年の5月31日のことになりますが、
鹿児島本線が降雨により、土砂崩れが発生し、
特急や急行については肥薩線経由で運転するということで、
実際に寝台特急はやぶさが人吉機関区に配属されていた重装備仕様の機関車デゴイチの170号機が20系の寝台特急はやぶさを引いて肥薩線を通過した画像が、
国鉄時代Vol.5号の特集記事20系客車とその時代というテーマで、
この時ほど人吉機関区に配属されていた機関車デゴイチの170号機については
まさに一世一代の晴れ舞台だったということになりますが、
それだけ山岳路線を走る機関車デゴイチには集煙装置が欠かせない存在であったという
ことになりますが、
いつの時代も機関車に乗り込む乗務員方達にはいろいろな苦労が絶えなかったということになりますが、
そうした苦労があってこそ安全に列車を運転していたということではないでしょうか。