引用先 https://tetsumaru.jp/user/C623/photo/12510/
機関車デゴイチの標準型といえば、機関車デゴイチの中でも最も多く作られたグループですが、
その中には戦時中に国によって買収された路線からの編入機もありました。
引用先 http://b767-281.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-9784df.html
それで機関車デゴイチの買収機についてですが、
今は廃線となりました伊達紋別から昭和新山を迂回するルートで倶知安を結んでいた胆振線になりますが、
戦時中に国によって買収された結果胆振線となりましたが、
胆振線自体元は私鉄の路線でありましたが、
胆振循環鉄道が作られた理由は脇方にあった鉱山から採掘された鉄鉱石を運ぶために作られた鉄道になりますが、
首都圏でいえば奥多摩で取れる石灰石を運ぶために作られた青梅鉄道と南部鉄道
そして鶴見臨海鉄道と同じようなものになりますが、
これらの路線についても戦時中に国によって買収された結果、青梅線に南武線そして
鶴見線へと変わりましたが、
鉄を作るうえでも石灰石は欠かせない存在であったということで、
奥多摩から採掘された石灰石を運ぶための路線ですら国によって買収されたというのですから、
鉄鉱石が取れる鉱山があればそれを運ぶ鉄道も買収されるのも当然のことになります。
引用先 http://aidusl.g2.xrea.com/D51023.html
そもそも胆振縦貫鉄道がD51の標準型を所有していたその理由も、
脇方にあった倶知安鉱山から鉄鉱石が産出されていたということで、
その運搬のために特例として胆振縦貫鉄道がD51の標準型の所有を認められたというのですが、
ただ、胆振縦貫鉄道がD51の標準型を運転する際ですが運転速度も33km/hで運転されていたというのですが、
元々胆振線自体が軽便鉄道から改軌した路線ということでありましたから軌道自体もあまり強く作られていなかったということでありました。
そうしたこともあってでしょうか、
胆振線については蒸気機関車が終焉を迎えるころには9600が活躍していたというのも、
機関車デゴイチでは重量がありすぎて、
逆に使えなかったということではないでしょうか。
ちなみにですが胆振循環鉄道が所有していた機関車デゴイチですがナンバーについては、
D5101 - D5105でこのうちD5101 - D5104については汽車製造で作られた車輌で、
D5105のみ日立製でありましたが、
じゃあ?胆振循環鉄道時代の画像は残っているのかというと、
それが残っていましたが、
実際に胆振循環鉄道時代の機関車デゴイチのD5105が撮影された画像がありましたが、
引用先 https://www.bojan.net/2017/11/15.html
撮影された画像ですが、国鉄 胆振線の災難と題されたパネル展で展示されたものでありましたが、
この画像がいつ撮影されたかということについてですが、
考えられるのは昭和新山が隆起してきたころになるのではないでしょうか?
昭和新山が隆起し始めたのが1944年になりますから、
その当時であればこのような画像も撮影されて残っていてもおかしくないのではないでしょうか。
何しろこの当時ですが、日本も戦時中ということでよほどのことがないかぎり、
写真なんて撮影できない時代でありましたから。
そうなりますと、国鉄 胆振線の災難と題されたパネル展で展示された胆振循環鉄道時代の機関車デゴイチの画像も貴重な画像になります。
編入後にナンバーがD51950からD51954になりましたが、
なぜ番号が飛んでいるかというと、
この間にD51の準戦時型が作られたということで、
その最終ナンバーからの続きということで、
上記のナンバーになりました。
それで胆振縦貫鉄道から編入されたD51の標準型については現在、
保存車も2台あり、
D51953号機については今は北海道虻田郡豊浦町字船見町にある中央公民館に保存されていますが、
引用先 https://www.steamlocomotivejapan.com/d51-953
D51953号機ですが旭川機関区時代にギースルエジェクターに交換され、
さらに運転台も密閉式になっていますが、
D51953号機については最後は岩見沢第一機関区に配属されていたということで、
1975年の12月13日の225列車を担当しましたが、
この時が実質的に蒸気機関車による最後の旅客列車でありました。
そしてラストナンバーのD51954号機は富良野市弥生町にある富良野分会館の前に保存されていますが、
こちらも運転台については密閉式になっていますが、
D51953とは異なり煙突も通常の形のものになっていますが、
元々胆振循環鉄道が所有した機関車デゴイチについては5台だけでありましたが、
そのうちの2台が残っているというのも奇跡的なものではないかと思いましたが、
こうした車両が保存されていること自体に意義があるということになります。