本棚の住人の鉄道忘備録

個人的に気になった鉄道に関するテーマで書いているブログです。

デゴイチが急行ニセコの補機の運用に入ったその理由は何か?

d517102
引用先 http://www.shiino-goichi.sakura.ne.jp/d51710_geneki_oiwakekikanku.htm


デゴイチですが、小樽築港に配属されていた車両については急行ニセコの補機にも入るということがありましたが、

それはどんな時なんでしょうか?

 

 


デゴイチが急行ニセコの補機に入った原因は何か?

 

 

そもそもデゴイチが急行ニセコの補機に入らなければならない事態ですがどんなときか
というと、

 

函館から来る急行ニセコで補機の運用に入っていた車両が故障してしまい、

 

さらに1台が全般検査で戦列から離れているというような時に小樽築港の機関車デゴイチが急行ニセコの補機に入るということになりますが、

 

これ、小樽築港で蒸気機関車の検修掛を担当していた山下仁郎さんにとっては恥ずかしい事態だったということになりますが、

 

山下仁郎さんの側から見ると小樽築港に配属されていたすべての蒸気機関車が問題なく戻ってくるというのが理想的であったということで、

 

c62についても急行ニセコの運用で戻ってきてからも遅くまで整備して、

 

翌日の運用に間に合わせていたというのですが、

 

それでも故障が起きるときは起きてしまったということになります。

 

 

デゴイチが急行ニセコの補機の運用は管理局もまたぐ騒動になってしまう。

 

それでデゴイチが急行ニセコの補機の運用に入る場合ですが、

 

この場合、管理局をまたぐ騒動にもなってしまうというのですが、

 

どういうことかというと、

 

c62については所属先が小樽築港機関区で札幌鉄道管理局になります。

 

反対に乗務員については長万部機関区に所属している方ですから、

 

函館が拠点の青函区局になりますから、担当する管理局も異なるということですが、

 

なぜ機関車と乗務員の所属が異なるのかというと、

 

北海道でも函館本線の小樽から滝川の間が電化された関係で小樽築港の蒸気機関車の乗務員の方達を電気機関車や電車の運転手へと転向されたということがあり、

 

その関係で長万部機関区の乗務員の中でも腕利きの方達がC62の乗務員を担当することになったということでありましたが、

 

それ以降、管理局がそれぞれ異なるということで縄張り争いも起きるようになった

ということですが、

 

この辺についてはその当時の国鉄もそうですが縦割りの組織で、縄張り意識も強かったということになりますから、

 

高々、c62が故障してデゴイチに変わるだけでもそうした騒動になってしまうということになります。

 

そうなると応援の乗務員なども長万部機関区から手配しなければならないということになりますが、

 

なぜ?応援の乗務員が必要かというと、デゴイチにはメカニカルストーカーがついていないということで、

 

タブレットを受け取る役目の方が必要になるということで、

 

そのための乗務員の方も必要になってきますから、

 

そうなると応援の乗務員も早めに小樽築港に来てもらうように手配するというのですが、

 

応援の乗務員の方が手配できないと機関助手の方が一人で、石炭の投炭から信号の確認、タブレットの受け取りまでをこなさなければならないということになりますから、


翌日の急行ニセコの補機がデゴイチに変わるということはそれだけ管理局をまたぐ騒動になってしまうということですが、

 

SL甲組の肖像の2巻の長万部機関区の2回目に現役時代にc62が担当していた急行ニセコの乗務員でもあった野呂忠彦さんの証言にのよると、

 

デゴイチニセコの補機に入る場合ですが、

 

上り坂では石炭をくべっぱなしで、

 

さらに機関助手が1人の時も段取りよくしていかなければならないということで、

 

カマを焚く、右カーブでは信号を確認する、そして再びカマを焚き、タブレット
受け取るというのですから、

 

それらをすべて一人でこなさなければならないというのですから、

 

デゴイチがc62に変わって急行ニセコの補機に入るときは本当に大変なことになってしまうということでありました。

 


デゴイチで小樽築港に配属されていた車両は?


急行ニセコといえば小樽築港に配属されていたc62が担当していましたが、

 

その中でも急行ニセコの運用が終わる1971年当時ですが、

 

小樽築港機関区に配属されていたデゴイチについては何号機がいたのかということについては、


国鉄時代の車両と風景というサイトに1955年の8月1日からc623号機
がいた1973年の3月末まで小樽築港機関区に配属されていた蒸気機関車
まとめたデーターがありますが、

 

その中に1971年の3月末のデゴイチに関するデータも掲載されていますから、

 

ちょうど急行ニセコの運用も終わりに入ってきたころですが、

 

小樽築港機関区にいた機関車デゴイチですが、

 

1次型の変形機としても有名な54号機をはじめとして、

 

1次型の59 63 64 70 88

標準型の138 193 219 213 287 353 443
    454 465 598 600 662 713 744 756

準戦時型の887 908 916 943

戦時型の1023 1057 1078 1149

 

になりますが、

 

このうちのどれかが、

 

c62が故障した場合に急行ニセコの補機の運用に入っていたということですが、

 

1次型の変形機でもあった54号機がc62の代わりに急行ニセコの補機に入っていたら実際の画像も撮影した方もいるのではないでしょうか。

 

もしその画像があったら見てみたいものです。

 


デゴイチは急行ニセコの一つ前のていね時代にも補機の運用に入っていた。

 

それと小樽築港の機関車デゴイチについてですが、

 

急行ニセコの前進でもある急行ていね時代にはすでにc62の代わりに補機の運用にも入っていましたが、

 

まだこの当時ですが、乗務員も小樽築港が担当していたということになりますが、


ちなみに昭和40年の10月のダイヤ改正で小樽築港に配属されていた6台のC62については、

 

急行ていねの本務機に2台、補機に1台そして小樽と長万部の間の普通列車と、札幌と旭川普通列車も担当し、さらに1台が予備になっていたというのですから、


そんな状況であっても予備の車両が全般検査で戦列を離れている時に、

 

急行ていねの補機を担当していた車両が故障するということもありましたが、

 

実際に撮影された写真が国鉄時代Vol.19の運用から見た小樽築港機関区のC62の34ページに1966年の5月6日に蕨岱を通過する急行105レていねに小樽築港に所属するD51 622が補機の運用に入っていた写真が掲載されていますが、

 

この写真ですが上記の記事を書いた三宅俊彦さんが撮影したものですから、

 

実際にD51が急行ていねの補機の運用に入ったということを証明していますが、

 

6台のc62が配属されていた当時でも故障して修理しなければならないというようなことになってしまうというのですから、

 

それだけ蒸気機関車の整備がどれだけ大変だったかということを物語っているということになります。


デゴイチが急行ニセコの補機に入ったときの評価はどうだったのか?

 

じゃあ、実際にデゴイチがc62の代わりに急行ニセコの補機の運用に入ったときの、

 

乗務員の方達の評価というと、

 

上り坂ではc62に比べてトルクが聞く反面、平坦な場所では後ろから押されている
感じで、

 

運転台の中まで炭水車に積んでいる石炭が入ってくるということもありましたが、


そこは貨物用の機関車と旅客用の機関車ですから、場所によっては結果も異なる
ということでしたが、

 

それだけデゴイチとc62が重連を組む場合、走行する区間で結果もちがっていたということになりますが、

 

それでも管理局を越えて、長万部機関区の方達も乗り込んでくれたというのですから、

 

そこは同じ乗務員として自分たちがやらなければどうするということですから、

それだけこの仕事に対して誇りを持っていたということになります。