引用先 https://gunmaotoko.exblog.jp/238330952/
機関車デゴイチがお召し列車を最後に担当したのは昭和46年の4月になりますが、この時担当した新見機関区もお召し列車と縁のある機関区でありました。
●新見機関区もお召し列車との縁も強い機関区だった。
引用先 https://banoyarou.exblog.jp/8779718/
機関車デゴイチが最後に担当したお召し列車といえば、昭和46年の4月に広島県と島根県での植樹祭の折に、
米子から岡山までの区間で新見機関区に所属するd51 838号機がが担当しましたが、
この時運転されたお召し列車については機関車デゴイチが最後に担当したお召し列車
となりました。
さらに当日ですが、沿線には多くの方が撮影に来ていましたが、
伯備線といえば布原信号所を出発する三重連の貨物列車も有名でしたし、SLブームということもありましたから、当日は場所取りも大変だったという話も残っていますが、
普段であれば貨物列車を担当する機関車デゴイチがお召し列車に抜擢されたというのであれば、それならば仕事などを放り出しても撮影に行くということになりますから、
その当時、社会人だった方もそうですし、大学生や高校生だった方にもこの時撮影した
機関車デゴイチのお召し列車は忘れられない思い出になったのではないでしょうか。
それで昭和46年の4月に米子から岡山までの区間でお召し列車を担当した新見機関区ですが、
これまでに2度お召し列車を担当してきた経験がある機関区の一つでありましたが、
じゃあそれがいつのことで、
どんな機関車が使われたのかというと、
新見機関区が担当したお召し列車で、1回目はというと昭和22年の12月でありましたが、
この時はc58が岡山から新見を経て津山まで担当しましたが、
まだ昭和22年であれば、日本も連合国によって占領されていた時期でありましたし、
この時は新津機関区に所属していた戦時型のd51 1107号機が担当しましたが、
引用先 https://twitter.com/tamrono157/status/1104719454653435904
お召し列車であれば日章旗はついていてもおかしくないはずですが、
日本が連合国によって占領されていたということで、
日章旗も付けずに運転したということですから、
この年の12月に運転されたお召し列車でも同じようなことになったということではないでしょうか。
そしてこの時も御料車旧1号編成が使われました。
そして2度目はというと、昭和40年の5月に鳥取県で開催された全国植樹祭の時になりますが、
この時はdf50が岡山から新見の間を担当し、御料車新1号編成が使われました。
ということもあって新見機関区についてもお召し列車との縁がある機関区になりますが、逆に言えば3度もお召し列車を担当するということもめったにないことなのではないでしょうか?
●昭和46年の4月のお召し列車の舞台裏であった出来事。
引用先 https://raillab.jp/photo/12871
それで昭和46年の4月の米子から岡山までの区間を担当した新見機関区ですが、
この時、本務機についてはd51 838号機、お召し予備機についてはd51 758号機となりました。
それでこの2台の機関車デゴイチのデフレクターに奉祝プレートを付けることになりましたが、
当初の計画では直径30cmの大きさの物をつけるはずでしたが、それでは小さいということもあって、
その当時、新見機関区の検修掛を担当していた安達さんが彫刻担当の藤井さんと相談したところ、
90cmの真鍮の板があったということでそれを使うことになりました。
それで奉祝プレートのデザインはというと、飛び鳳凰とに新見藩主の家紋でもある鳳凰丸となりましたが、
この時作成した奉祝プレートについてですが、4月になってから藤井さんが呼ばれて
車庫に行ってみたら、
本務機には鳳凰丸が、予備機には飛び鳳凰をつけることが多数決で決まったというのですが、
この時は、藤井さんがそれではだめだということで、本務機と予備機につける奉祝プレートが入れ替わることになりましたが、
なぜ?そうなったのかというと、飛び鳳凰についてはお召し列車の象徴として作ったものですが、
鳳凰丸については新見藩の藩主の家紋であるということで、そのような物を本務機につけたら世間の笑いものになるということで、
機関区の方達も納得してくれたということですが、せっかくお召し列車のために作った
物ですが、
ただ、その使い道を誤ってしまったということでありましたが、
仮に本務機でもある838号機が鳳凰丸の奉祝プレートをつけてお召し列車を担当していたらどんな評価がついたのかというのが、この記事をまとめていてそのような疑問を感じましたが、
結局は飛び鳳凰を本務機でもある838号機につけたということが正解だったということでありましたが、
このようなことが昭和46年の4月の伯備線で運転されたお召し列車の舞台裏にあったということですが、
それだけ新見機関区としてもこの時もお召し列車の運転に全力を注いでいたということになりますが、
お召し列車一つとってみてもいろいろと知られていない話が合ったということでありました。
●機関車デゴイチが最後に担当したお召し列車も撮影が大変だった。
引用先 https://raillab.jp/photo/12902
機関車デゴイチが最後に担当したお召し列車ですが伯備線を走るということで、運転当日には沿線に多くの人が撮影に来ていました。
それで国鉄時代の創刊号から関わっていた山下修司さんもこの時、運転されたお召し列車を撮影したというのですが、
その時の話と撮影した写真が国鉄時代Vol.33の編集後記に出てきていますが、
もしかしたら遠くない将来になりますが、カトーから昭和46年の4月に米子から岡山までの間を担当した本務機のD51838号機と予備機のD51758号機が製品化されるということもあってもおかしくないのではないでしょうか。
もちろん御料車新1号編成の昭和仕様の再生産と合わせる形で製品化されたら嬉しいですね。