引用先 https://blog.goo.ne.jp/antonrokuichi/e/650b2df3718301de3246b8e02eb32983
ef58が担当した急行には12系のハザと10系の寝台車が組み合わさった急行もありましたが、いつからそうなったのでしょうか。
●ef58が担当した12系ハザと10系の寝台車の組み合わせは急行はきたぐにから。
●急行音戸も12系ハザと10系の寝台車の組み合わせに変わった。
●急行津軽も12系ハザと10系の寝台車組み合わせで運転されていた。
●ef58が担当した12系ハザと10系の寝台車の組み合わせは急行はきたぐにから。
引用先 https://ameblo.jp/terkey-rider6633/entry-12492882379.html
12系ハザと10系軽量客車の寝台車との組み合わせはいつからかというと、1973年の10月のダイヤ改正から急行きたぐから、12系ハザと10系軽量客車の寝台車との組み合わせによる急行が始まりましたが、
急行きたぐにのルーツは、20系時代の寝台特急日本海まで遡りますが、寝台特急日本海も最初は大阪と青森を結ぶ急行として運転されていましたが、急行日本海が寝台特急に昇格した関係で、これまで急行日本海で運転されていた列車が急行きたぐにに変わっただけですが、
急行きたぐには1972年の北陸トンネル火災がありましたが、北陸トンネル火災が起きるまでは食堂車を連結していましたが、その理由も大阪と青森を結ぶ重要な列車でありましたから食堂車も必要だったということでした。
食堂車を連結していいたころのきたぐにの編成はというと次のようになります。
オユ10 スロ62 スハ43 オシ17 ナハ10×2 オハ47 ナハフ11 スハフ42 スハネ16×2 オロネ10 スハネ16 オハネフ12
そして食堂車の火災が起きた年の年末のきたぐにの編成は次のようになります。
オユ10 スロ62 スハ43×2 ナハ10×2 オハ47 ナハフ11 スハフ42 スハネ16×2 オロネ10 スハネ16 オハネフ12
急行きたぐには1973年の10月のダイヤ改正から12系ハザと10系の軽量客車の寝台車との編成に移行しましたが、それ以降もダイヤ改正のたびに編成も変わっていき、1976年10月1日のダイヤ改正以降では、b寝台車がスハネ16からオハネフ12変わりましたが、その当時の編成が次のようになります。
マニ37 オユ10 スロ54 スハフ12 オハ12×4 スハフ12 オハネフ12×2 オロネ10 オハネフ12×2
1978年10月2日のダイヤ改正以降はグリーン車が外されましたが、その時の編成が次のようになります。
マニ37 オユ10 スハフ12 オハ12×4 スハフ12 オハネフ12×2 オロネ10 オハネフ12×2
12系ハザと10系の軽量客車の寝台車との組み合わせでの編成は、1982年11月14日のダイヤ改正前日まで運転されていましたが、11月15日のダイヤ改正で14系14型のハザとハネ、ロネの組み合わせで新潟までの区間に短縮されました。
急行きたぐにを担当したef58は、1978年の10月のダイヤ改正前までは宮原機関区が担当していましたから、原形大窓の53号機やツララ切り付きの原形大窓の43号機、原形小窓の100号機や150号機も急行きたぐにの大阪から米原までの区間を担当していました。
1978年の10月のダイヤ改正以降は米原機関区が担当することになりましたが、米原機関区も原形小窓のef58もいましたし、ツララ切り付きで前面窓がHゴムでさらに側面が7つ窓の36号機もいましたが、米原機関区のef58は1982年11月14日のダイヤ改正前日まで急行きたぐにの運用に入っていましたから、今考えてみたら奇跡的なことだったのではないでしょうか。
この当時のef58は東京機関区や浜松機関区などの主要な機関区で荷物列車や団臨だけでありましたから、そのなかでまともに急行列車の運用に入ったef58がいた数少ない機関区の一つでありました。
●急行音戸も12系ハザと10系の寝台車の組み合わせに変わった。
引用先 https://raillab.jp/photo/3279
急行きたぐにが12系ハザと10系の寝台車の組み合わせに変わった1973年の10月のダイヤ改正では京都と下関を結ぶ急行音戸2 、1号も座席車が12系のハザに変わりましたが、急行音戸はこの当時、新大阪と下関を結ぶ1、 2号と京都と下関を結ぶ急行音戸2、 1号がありましたが、急行音戸1 、2号は完全な寝台列車であるのに対して急行音戸2、 1号は寝台車と座席車の組み合わせでありましたが、
それが1973年10月のダイヤ改正から12系ハザと10系のハネ、ロネの編成に変わりましたがその時の編成が次のようになりますが、
ワサフ8000 ワキ8000×2 マニ37 オハネフ12 スハネ16×2 スロ54 スハフ12 オハ12×4 オハフ13
急行音戸2、 1号もグリーン車を連結していましたが、この点は急行きたぐにと似ている部分でもありますが、旧型客車時代の急行音戸2、 1号の編成はというと、
ワサフ8000 ワキ8000×2 マニ スハフ42 スロ54 スハネ16×2 オハネ12 オハ46×5 スハフ42になりますが、
急行音戸2 、1号にはパレット式の荷物車のワサフ8000が連結されていましたから新聞輸送の役目も果たしていた点が急行音戸1 、2号との大きな違いになりますし、急行音戸も急行きたぐにと同じく宮原機関区のef58が担当していましたが、
1975年の3月10日のダイヤ改正で寝台特急安芸になりましたが、寝台特急安芸に変わる前の急行音戸2 、1号の編成は次のようになりますが、
・下り2号
マニ60 スハネ16×2 スロ54 スハフ12 オハ12×4 オハフ13
・上り1号
マニ60 スハネ16 スロ54 スハフ12 オハ12×4 オハフ13
この頃になるとパレット式の荷物車も外され、寝台車とわずかな客車だけの編成になりました。
●急行津軽も12系ハザと10系の寝台車組み合わせで運転されていた。
引用先 https://blog.goo.ne.jp/antonrokuichi/e/2e14a25ff4f09dc153a37c8894337589
上野と青森を結ぶ急行津軽も1978年の10月のダイヤ改正から12系のハザと10系の寝台車の組み合わせに変わりましたが、この時点で急行津軽を担当したのが宇都宮機関区のef58で、この頃の宇都宮機関区のef58は前面窓がHゴムになった車両ばかりでありましたし、89号機のようにツララ切りのef58もあり、急行津軽の運用に入っていましたが、急行津軽もダイヤ改正のたびに編成も変わっていき、
1978年の10月のダイヤ改正からの急行津軽の編成はというと、
・津軽1、4号
マニ37、スロフ62、オハネフ12、オロネ10、スハフ12、オハ12×5、スハフ12
・津軽3、2号
オハネフ12×2、スロフ62、オロネ10、オハネフ12、スハフ12、オハ12×5、スハフ12
で、翌年の1979年10月1日のダイヤ改正でグリーン車が外されましたがその時の急行津軽の編成は次のようで、
・津軽1、4号
マニ37、オハネフ12、オロネ10、スハフ12、オハ12×5、スハフ12
・津軽3、2号
オハネフ12×2、オハネフ12、オロネ10、スハフ12、オハ12×5、スハフ12
となりました。
そして東北新幹線大宮暫定開業前の最終日の急行津軽はというと、
1982年11月14日
・青森行き津軽3号
オハネフ12、スハフ12、オハ12×5、スハフ12
・上野行き津軽2号
オハネフ12、スハフ12、オハ12×5、スハフ12
となり、11月15日からの急行津軽も20系に移行しましたが、急行津軽は秋田や青森とを結ぶ急行として運転されていましたそうしたことで、東北地方と東京との間を利用する方達にも人気がありましたが、それが20系に変わったことで利用しずらくなった末に14系のハザに変わってしまったのも皮肉な結果でありましたが、1982年の11月14日までは宇都宮機関区のef58が担当していましたが、この組み合わせも急行津軽が最後となりました。