本棚の住人の鉄道忘備録

個人的に気になった鉄道に関するテーマで書いているブログです。

フレートライナーの功績!EF66が増備されたその舞台裏。

 



引用先 https://www.kanorail.com/EF66/EF66.htm


ef66で0番台が担当したフレートライナーですが、どんな目的で設定されたのされたのでしょうか。

 

 

 

 

 


ef66が担当したフレートライナーとは何か?

 

 



引用先 https://www.kanorail.com/EF66/EF66.htm

 

 

ef66の0番台で21号機以降の車両は1973年から増備された車両になりますが、なぜ?新たにef66が増備されたかというと、その裏には1972年の3月ダイヤ改正で新たに運転が始まったフレートライナーの存在でありますが、

 

ef66も担当したフレートライナーはどんな列車かというと、東海道山陽本線ef66が担当していた最高速度100キロの特急貨物Aがありましたが、それでもトラックなど対抗するのには十分でなかったということで、その当時の国鉄民間の運送会社と提携し高速性と高い経済性を併せ持つ次世代の高速貨物列車の開発を進めていましたが、これがのちにフレートライナーと呼ばれる特急貨物Bになります。

 

 

特急貨物B最高速度高速貨物Aと比べて5kほど遅く、最高速度が95キロに設定されてる点が最大の特徴で、ef65でも担当することができるということで、従来の高速貨物Aよりもさらに列車の本数を増やすことができました。

 

 

その結果、高速貨物Bは運転が始まった当初は上下合わせて20本10往復でしたが、最盛期の1975年の3月のダイヤ改正では43本が設定されていましたが、今考えてみたらあの当時でもそれだけの本数の高速貨物列車が運転されていたのには驚きを隠せませんが、

 

 

そうしたことがあったから今日のJR貨物でもコンテナ輸送に力を入れているのも高速性と大量の輸送力をコンテナ列車が発揮できるという力を持っているということになりますから、いつの時代も先見の目を持つ方達がいたということになります。

 

 

その結果、ef66は21号機以降が増備されることにもつながっていきました。

 

 

ef66が登場する前にフレートライナーを担当した機関車は?

 

 

 

 



引用先 https://www.kanorail.com/EF66/EF66.htm

 

 

1972年から運転が始まった高速貨物Bは、運転が始まった当初はef65 0番台が担当していましたが、1973年の10月のダイヤ改正からはef65 500番台のF型も加わりましたが、500番台のF型高速貨物列車に復帰するのはヨンサントオ以来、5年ぶりでした。

 

 

東海道山陽本線で運転されていたフレートライナーこと特急貨物Bですが、どんな車両が使われたかというと、コキ50000になりますが、コキ50000ですが5tコンテナで5個、10tコンテナで3個。緩急車のコキフ50005tコンテナが4個、10tコンテナが2個積むことができますが、

 

 

登場した当初は5tコンテナばかりでしたが、国鉄が終わりになるころには運送会社のカラフルな私有コンテナを積むようになりましたが、

 

 

コキ50000系機関車を問わないということもあり、北海道であれば札幌からまだ青函連絡船時代の函館までの区間dd51が単機もしくは重連で担当していたこともありましたからそれくらいに汎用性の高いコンテナ車であったということで、

 

 

JRに移行してからはスーパーライナー用として25万台や35万台に改造されたのも最高速度が95キロだったからこそ、コキ100系が登場するまで特急貨物の主力として活躍していたということになりますが、

 

 

逆にコキ10000系最高速度100キロということもあり、それがかえって災いしたということで、JR貨物になってからすべての車両が廃車となりました。

 

 

 


ef66がフレートライナー担当したからブルートレインも担当できた。

 

 

 

 

 

引用先 https://www.kanorail.com/EF66/EF66.htm

 

 


フレートライナーでも活躍していたef66 0番台は、その後はフレートライナーの本数も減ってきたということで、一部の車両が東京発九州行きの寝台特急を担当することになりましたが、こんなところにもフレートライナーの影響が出ていたということになりますが、

 

 

これ、別の角度から見ていきますとフレートライナーの運転がなければef6620号機まで終了していたということですから、最後まで原形に近い状態を保った27号機も存在しなかったということになりますから、

 

 

フレートライナーがあったから27号機も登場し、さらにブルートレインも担当する車両も出てきたのですから、フレートライナーを開発した方達が将来を据えていたということではないでしょうか。