引用先 https://drfc-ob.com/c-board/c-board.cgi?cmd=one;page=298;id=
ef58は京都と博多との間で運転されていた特急かもめも担当していましたが、担当した時期はいつまでだったのでしょうか。
●ef58が担当する前の特急かもめ。
引用先 http://uenojp.web.fc2.com/tarsannosekai-3.html
今は西九州新幹線の名前になったかもめですが、戦後になってから運転が再開された列車で、京都から博多までの運転が再開したのが、1953年3月15日ですがまだこの当時は蒸気機関車が担当し、京都から博多に向かうかもめが、京都から広島まで梅小路区のc59、広島から下関は広島区のc62。
博多から京都に向かうかもめは、下関から広島は下関のc62、広島から京都までは広島区のc59が担当していましたが、これも今なら夢たいな光景になりますが、広島駅で戦前の大型旅客機のc59と戦後の大型旅客機のc62が交代するのですが、あの当時は当たり前の光景でありましたし、
博多から京都に向かう特急かもめもセノハチ越では瀬野機関区のd52が補機としてつき峠越えにいどみますが、d52の炭水車の後ろの部分にも特急かもめのヘッドマークがつきましたし、特急かもめを担当した梅小路、広島、下関のc59やc62でも担当した機関区ごとで特急かもめのヘッドマークも異なっていました。
c59やc62が担当した特急かもめで使われていた客車はスハニ35、スハ44、スハフ43に食堂車はマシ49、特ロはスロ54が使われていましたが、実際の特急かもめの編成もスハニ35、スハ44×3、マシ49、スロ54×3、スハフ43で編成美の美しい列車でありましたが、
1955年の12月14日の博多行き特急かもめには海外からの団体客が乗車した関係でスイ38が増結されていますが、本来ならば特急つばめやはとに使われる客車がわざわざ、京都まで回送で運ばれてきましたが、鉄道ピクトリアルの1989年7月号の鉄道趣味と列車編成の記事の11ページにも、1955年の12月14日の博多行き特急かもめの編成記録が出てきています。
●ef58が特急かもめを担当したのはいつか?
引用先 http://tetueizuki.blog.fc2.com/blog-entry-240.html
特急かもめもef58が担当した列車ですが、それがいつからかというと、1958年の4月の山陽本線の姫路まで電化された際で、宮原機関区が担当しました。
この当時の宮原機関区は大窓、小窓の茶色のef58が配属され、特急かもめの京都から姫路までの区間を担当していましたが、客車がオハニ36、ナハ11、ナハフ11に変わり、食堂車はオシ17になりましたが、特ロはスロ54のままですが、今もJR東日本と大井川鉄道に残っているオハニ36ももしかしたら特急かもめの運用にも入った可能性もあるのではないでしょうか。
あと、大井川鉄道ですが特急かもめで使われたスハフ43も2両残っていますが、これは奇跡的なことではないでしょうか。実際に特急かもめで使われた車両が残っているのですから。
●ef58で浜松区の車両も特急かもめを担当した。
引用先 https://ameblo.jp/c62asakaze/entry-12280504615.html
特急かもめは1960年の倉敷電化により、担当する機関区が浜松区に変更なりましたが、この当時の浜松区にはef58 1号機をはじめ、ひさし付きの42号機もいましたし、大窓や小窓のef58もいましたから、それらのef58が特急かもめを担当していました。
それであれば晩年はお召し予備機となったef5860号機も特急かもめの運用に入った可能性も十分あり得るのではないでしょうか。
浜松区のef58が担当した特急かもめは客車が10系の軽量客車に移り変わる過渡期で、これまで使われてきたスハニ35、スハ44、スハフ43がオハニ36、ナハ11、ナハフ11に変わり、食堂車もマシ49からオシ17、特ロはスロ54がナロ10に変わりますがそのころの編成は次のようになります。
オハニ36、ナロ10×3、オシ17、ナハ11×3、ナハフ11
そして1961年9月末で客車での特急かもめの運転が終ったことで、昼行の特急列車を担当していたef58の役目も終わり、この後は長距離を走る急行列車などで活躍することとなりましたが、特急つばめやはとを担当し、20系の寝台特急や特急かもめを担当していた頃がef58が一番輝いていた時期でありました。